家事分担をテーマに、2人の子どもを育てた高橋さん(50代男性)に過去の体験談を記事としてお書き頂きました。夫婦の馴れ初めから現在の家事分担まで、紆余曲折を経て築いた家庭の歴史の一片です。参考にして頂ければ幸いです。

family_big

共稼ぎ夫婦25年目の自己紹介

私が妻と交際を始めたのは中学生の時です。

妻は私の1つ上で姉さん女房、剣道部の先輩だったのです。

当時から妻は怖い先輩でありました。

 

「高橋、わたしの彼氏になれ!」

この言葉が妻と私の始まりになりました。

 

それから36年が経ちました。

今ではベテラン夫婦の仲間入りです。

そして今年、私たちは銀婚式を迎えました。

この36年間の中で、妻と私がゆっくりと過ごせたのは学生時代と、今だけです。

それ以外は共稼ぎ夫婦として、仕事と家事を両立させてきました。

たぶん友達や近所の人たちから忙しい夫婦だと思われてきたでしょう。

それでも妻と私は幸せな夫婦生活を過ごしてきたのです。 

やっぱり主役は子ども

忙しい夫婦と呼ばれる理由は明らかです。妻は3Kと言われている看護師として働き、私は忙しい営業マンとして働いていたから。今は分かりませんが25年前、当直がある仕事を女性がする仕事なんて看護師以外滅多にありません。

でも私たち夫婦は仕事と家事を両立させて育児もしてきました。

これは成功例ではありません、私たちにとって普通なのです。

 

そしてなぜこんなことが出来たのですかと、同僚や部下から訊ねられます。

答えはこの後に解説していきますが、その前に、まあ何と言ってもこの25年間の主役はやっぱり2人の子供です。

これはどこの夫婦でも一緒ですよね。

現在この子供たちは、長女が23歳看護師となり長男が22歳医学部生となっています。

でも子育ては本当にあっという間の出来事でした。

 

結婚は妻が

妻と私が結婚を決意した理由は、デートをする回数を増やしたい気持ちでありました。凄く軽い人生の選択になりました。

互いに学生同士であれば予定を合わせることは容易で、毎日のように、気軽に会うことができましたが、この回数は妻が看護大学を卒業してから激変しました。

2ヶ月に1回のペースに減ったのです。

 

そしてプロポーズは妻から私への申し込みとなりました。

世間的には不思議な夫婦かもしれません。

でもこのようになった理由は、妻が卒業後に選んだ診療科が高度救急救命センターだったからです。

そこは人の生死と直面することが多い現場でありました。

そして24時間働き続けるところだったのです。

あんなに怖かった先輩なのに、心が弱くなっていき、妻はストレスで悲鳴をあげているようでした。

ひょっとすると 結婚に縋る思いもあったかもしれません。

 

新婚生活で家事を学ぶ 

新婚時代の新居は、妻の希望で病院から徒歩30分のところになりました。

私も営業マンだったため不規則な勤務となり、いつも擦れ違い夫婦でありました。

妻はそれでも一緒に暮らしている安心感があったようです。

 

擦れ違う中で妻が看護師として経験を積むことで当直が増えていきました。

次第に妻が家に戻らない日が増えたため、洗濯物は溜まり部屋は汚れてきました。買い物をしていないため、私が家に戻ると食べ物がないのです。

私の親は男尊女卑を絵に書いたような家庭だったので、男の私は家事とは無縁だったのが仇になっていきました。

その頃、妻と私は顔を合わせる度にこの事で喧嘩をしていました。

ここで私は、10年前に部活の先輩である妻と交際したことを後悔したくないと思ったのです。そんな思いを機に、私がすべての家事をすることにしました

 

家事を本気で学んだ後の変化

結婚するまで実家にいた私は、掃除以外の家事経験が全くありません。

ここから私のサバイバル生活が始まりました。

 

このサバイバル生活を助けてくれたのが登山仲間の1人でありました。

彼は料理が得意で、登山の時も彼が自慢の料理を披露していました。

その彼が私だけに料理教室を開講してくれたのです。

ここではキャベツの千切りから魚の捌き方、目玉焼きからハンバーグまでの多くの料理を教えて貰いました。

 

それから私は家事に目覚めたのです。家の掃除から洋服の洗濯、自分のワイシャツと妻の白衣までアイロンをするようになりました。

これが私に不思議な現象を与えてくれるようになったのです。

それまで綺麗好きではなかった私が豹変し、潔癖症になってしまったのです。

 

今から思えば妻の作戦勝ちではなかったかと思いますが、綺麗好きな妻は大変喜びました。それから子供が授かるまで、私が全ての家事をしていました。

当時は効果の高い薬品がなかったため、掃除はすべて手作業です。

洗濯は家電の進歩があったため、少し楽にはなりました。そして暮らしていくための料理はたくさん覚えました。毎週のように図書館で料理の本を借りてきました。

・ローストチキン

・ブイヤベース

・トムヤムクン

・たい飯

・ワンタンのごまだれ

これらが私の自慢料理になりました。

「これ美味しい、合格」

と妻によく褒めて貰いました。

 

家事に育児が追加される

24年前、結婚した直後に2人だけで行った北岳が育児の始まりでした。

あの時のことは、私にとって一生忘れられない話です。

 

それは私が妻の27歳の誕生日を祝っている時に、突然妻が私に北岳を一緒に登りたいと言い出したのです。

「一生のお願いだから、2人だけで北岳の頂上に行こう!」

妻は真剣な眼差しで私に言いました。

「中学の遠足以外に登山経験のない尚美には無理だ」

私は妻の誕生日を祝っている席にも関わらず眉を吊り上げ大声を出しました。

「やだ、絶対に行くお願いだから」

妻は大きな瞳から大粒の涙を流しながら哀願してきました。

しかし私は承諾しなかった。

「絶対だめだ、夫婦で心中するつもりか」

また私は大声を出しました。

「高橋、これは先輩の命令だ、後輩は先輩の命令に従え」

私が買ってきたタカノフルーツパーラーのショートケーキに大粒の涙が雨のように降り注ぎながら、妻は涙声で言いました。

「それに174センチもある尚美が怪我でもしたら、俺は担ぐことできない、危険だ」

私は妻の要求を何度も断りました。

それでも妻は繰り返し私に哀願してきました。

その妻は今まで見たことがない乱れようでありました。

「死んでもいいんだな」

私はこの妻の願いを受け入れる事にしました。

「うん」

妻は笑顔に戻りました。

そして、はじめて妻は登山をすることになりました。

それも3000m級の山です。

やはり尚美先輩は鬼でありました。

 

最近になって私はこの登頂が夫婦というチームワークの試験であったとこを知りました。

 

妻と私は広河原荘から北岳山頂を目指して登り始めました。

「なに、この梯子、怖いよ、こんな崖を高橋は毎回登っていたのか、信じられない」

妻は北岳山頂を眺めながら少し弱気な言葉を発しました。

「今なら戻れるぞ」

「ほらほら、高橋登るぞ!」

妻は頬を振るわせながら命令してきました。

この時、私はこの登山に何かを賭けている妻の姿を感じていました。

 

妻の上にある山頂まで続く長い梯子は体力勝負の難所であります。

「頑張れ、振り返るな、前に進め、頑張れ」

私は妻に声を掛けながら北岳山頂を目指しました。

次第に妻の呼吸が荒くなります。

私は妻の様子をチェックしては、小まめに休憩を入れました。

さらに続く梯子とトラバースが妻の体力を奪っていきました。

 

漸く3193mの北岳山頂に妻と私は到着しました。

富士山が3776mであり北岳もこれに近い数字であるため、登山初心者の妻はよく頑張ったと私が感動させられました。

「高橋、これが北岳の山頂か以外と簡単ね」

妻は疲労をした顔で強気な言葉を発していました。

「また一緒に登るか」

私は試しに妻に訊いてみました。

「こんな梯子、二度と登りたくない」

妻は笑いながら答えました。

 

その晩の宿である北岳山荘に行く途中に最後の難所が待ち構えていました。

それは岩肌を進んでいくトラバース道です。

ここは垂直に切られた岩肌に1mほどの道があります。

そして道の片側は物凄い崖になっています。

実際にトラバース道を進むと普通の山道と変わりないのです。

しかしこの道の入り口付近から眺める景色が、初心者の妻には強い恐怖に感じさせていました

先程までの強気な妻の足が震え出していました。

「戻ろうか、疲れただろう、ここで充分だ」

私は妻の顔を覗きながら訊いてみた。

「だめ、絶対に諦めないからわたし、そのかわり、いつでもわたしを支えてよ」

正直なところ、私には174センチの妻を支える自信がなかった。

「わかった、ゆっくり進むんだぞ、そのうち慣れるから」

恐怖心を隠せない妻はなかなか先に進むことが出来なかった。

私は妻の背中を押すかのように先に何度も声を掛けました。

 

それから北岳山荘には無事に到着しました。

しかし妻の右足はどこかで捻挫をしたようでありました。

「痛むか」

私は不安な顔をした妻に声を掛けてみました。

「大丈夫、明日から私を支えてね」

「わかった」

この時、私は妻の命だけを守る事しか考えていませんでした。

 

北岳で確かめた共稼ぎ夫婦というカタチ

また少し話が戻りますが、私たち夫婦の結婚のプロポーズとして、妻は”子どもを出産しても看護師の仕事を続けられるように協力すること”を条件にしてきました。

言葉の上ではもちろんOKを出して結婚しましたが、妻が計画的に「1人目の子どもを産もう」と決心をしたのは登山のときであったと言われました。 

夫婦は、他人同士だから分からないことが多い。そのため妻は、出産後このまま看護師を続けるには、どうしても私の協力が必要であると考えていました。

妻が試したいことに私が不合格のときは、看護師を辞めることを決心していたそうです。

 

妻の退職と育児

北岳登山から1年が経ち、長女が誕生。

妻は臨月まで高度救急救命センターで看護師を続けました。

そして育児に専念したいと言い出して病院を退職したのです。

ここから妻と私の育児が始まりました。

 

長女が生まれてから3ヶ月間、妻は実家に戻っていました。

その間の家事は妻が看護師と働いていた時と何も変化がありませんでした。

ただこの中で増えた私の仕事は、毎日会社の帰り道に妻の実家に寄ることでありました。

それは長女のおむつ交換と浴槽での体洗いの訓練でありました。

私は長女が家に戻った時のことを考えて妻から指導を受けたのです。

妻の指導は厳しかったのです。

長女がオムツかぶれをしないための拭き方、浴槽での頭と首の支え方など夫婦喧嘩になるほどの指導でありました。

 

その後妻は実家から自宅に戻ってきました。

帰宅すると、毎日家に妻がいるのです。

私としては新婚生活のはじまりのような気持ちになりました。普通の共稼ぎ夫婦でも、ここまで妻が家にいることに感動する人はいないと思います。それまでは素晴らしいほどの擦れ違い夫婦だったのです。

なにせ、この妻は新婚旅行をキャンセルするほど看護師の仕事に生きがいを持っているのですから。

 

結婚をしてはじめて、妻が仕事に行っている私を家で待っているのです。

それにすべての家事をしている妻の姿を覗けました。

私は毎日妻の手料理を食べることが出来ました。

妻の肉じゃが、金平ごぼう、煮物は最高に美味しかったのです。

普段から食べてはいたが育児で家にいる時間ができたことで丁寧に作ることができたようです。妻の父親は警察官、母親は看護師であったため、私たち夫婦のような生活をしていたのです。

その時、妻は自分で料理を覚えて妹と弟にご飯を出していたそうです。

私は妻から料理が得意だと聞かされていたが、それを味わうことがなかったため疑っていました。

この時、そんな疑いを妻に持っていた自分に反省をしました。

このような生活で長女の育児をしている途中で、妻は長男を授かりました。

それから8ヶ月後に、妻は2人目の子を出産しました。

 

長男の育児に関してすでに長女で経験していたため、私はスムーズでありました。

結局妻は看護師として2年半ほど休職をすることになりました。

 

 妻の看護師への復職

妻の次の職場はJR中央線の駅から歩いて15分ほどの病院に決まりました。

そのため私たち夫婦は、妻が働く病院周辺に1戸建ての家を購入しました。

そこで家族4人の生活が始まりました。

そして長女と長男は公立保育園に通い始めたのです。

 

妻は子供たちの育児を考えて、以前のような救急救命ではなく外科病棟を選びました。

でも激務には変わりはありません。

そのため子供たちを保育園に送る役は私が週に3~4回、お迎えは妻が専門にしていました。とは言っても、お迎えは義母がしていましたが。

妻は気の強い嫁でありましたが、たぶん私の母には頼みづらかったのでしょう。

たまに義母が体調を壊した時は、妻から私に連絡が入り姑に頼んで欲しいと言ってきました。共稼ぎ夫婦において両親の協力は重要になりますね。

 

この時、1つ大きな問題が発生しました。

それは長男が保育園に行くことを嫌がることが続いた時期があったのです。

朝の送りが多い私には大変な問題になりました。

そして超忙しい共稼ぎ夫婦には大問題に発展しました。

このため私は何度か会社に遅刻をしました。この時に私たち夫婦へ協力してくれたのが3歳の長女でありました。長女が私たちの見ていない間に長男に何かを話したようです。

翌日から長男は嫌がることなく保育園に行くようになりました。

 

この長女が大人びているのかしっかり者なのか、この時は分からなかったのです。

それに長女は料理が大好きで、この頃から義母に教わっていたようです。

数年後、義母から直接その当時の話しを聞くことになりました。

 

幼稚園と同じように保育園にも運動会やお遊戯会などの行事がありました。

妻はなかなか休暇が取れず私も仕事が忙しかったため、お互いの両親が保育園の行事に参加してくれました。

 

自由人の集まりでも家族にチームワークはだれでも出来る

小学校3年を迎えて、長女が家事に参加・後に長男も家事をするようになり、我が家の家事分担は4人体制になりました。

これで我が家の家事は、その時に家にいる人がするようなシステムになりました。

 我が家の人々は基本的に自由人です。

ただ家族同士でメール交換を頻繁にしています。

「今日、私が家に居るからご飯を作っておくね」

「今日は僕が掃除しておいた」

こんな内容のメールが飛び交います。

最近ではLINEになっています。

 

妻のファミリー育成は成功をしました。

いつまでも家族が仲良くしていれば、共稼ぎ夫婦は幸せです。

そして家事は家族全員のチームワークが大切になります。

 

先日、妻が槍ヶ岳に挑戦したいと言い出しました。

今度こそ、本当に夫婦心中になります。

今、家族全員で妻を止めにかかっています。