前回に引き続き、山崎さん(仮名)が体験した、海外のお手伝いさんに関する価値観と、家事に対する考え方をご紹介致します。

 

お手伝いさんのいる生活、だからこそ、子供たちにも家事を。

 

 

あんなに抵抗感のあったお手伝いさんのいる生活がはじまると、すっかりと楽をすることに慣れてしまい、当初の週に3日のお手伝いから、1年ほどたった頃には週に5日間のフルタイムにてお願いすることに。私は主人の手伝いで家をあけることも多くなってきました。

 

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お手伝いさんは、とっても人柄のいい明るい女性で、午前中は息子の面倒をみながら家事をこなし、午後は長女が幼稚園からもどってくると、三人で楽しそうに遊んでいました。

 

 

疲れてぐずる小さい息子をひょいっとスカーフでくるんで腰位置において、娘と遊ぶお手伝いさんの姿は、私にとっては救世主そのものでした。

 

 

そんなある日、プールで遊んでいる子供たちを見守っていたときに、ショックなことがおこりました。

 

 

あめ玉を袋からとりだして口の中にほうりいれた娘、プール際を歩きながら、その空の袋を「ぽいっ」と、とても自然に放り投げたのです。

 

 

ここ、現地の人たちは、あきれるほど大っぴらにごみを放り投げます。車の窓からごみや空き缶ぽいっは当たり前。大量の紙が、信号停止中の車の窓からどさっと捨てられるのをみかけたときは本当に驚きました。

 

 

外でのポイ捨てだけでも驚きますが、自宅の塀の外に、ゴミ袋をぽいぽいと捨てる人たちもみかけます。そして、それらが山のように積もっています。

 

 

我が家に隣接する野原がほぼ全焼する恐ろしい火事がおこったのですが、どうやらたばこのポイ捨てが原因だったようです。

 

 

そして、今、我が子がそれをやっている。

 

 

しかも、現地の人たちのように、全く悪びれもせず、え、何が悪いの?といった調子で。

 

 

この出来事がきっかけで、それまでも、これはわが子たちにはやってほしくないな、逆に、これは我が家ではちゃんとやらせなければと思う事がいろいろとあったことで、すぐに実行するべきであると気付きました。

 

 

ポイ捨て禁止はもちろんながら、もう一つ気になっていたのが、子供たちの遊んだおもちゃの後片付けさえも、お手伝いさんがやるものだと思われていること。

 

 

その頃には、主人の仕事場を通して、現地の人たちの仕事のやり方、仕事に対する態度であるとかずいぶんとわかってきた上で、想像力、追求心、集中力に責任感のなさ加減にあきれることが多くありました。

 

 

もちろん、これは、皆にあてはまるわけではないのですが、このように感じる人たちは、大抵、書類などの整理が先ず出来ないし、トイレが汚れていようが、冷蔵庫の中がどぶ状態になっていようが、全く気にする気配もなし。

 

 

こういう小さい部分が気になった私は、気付いてくれるだろうと期待をもって、トイレの掃除、冷蔵庫の掃除と積極的に行っていたのですが、残念なことに、「元気だね。いつも動き回ってよく働くね」と感心されるのみ。

 

 

 皆、にこにこといい人たちなのに、近隣国からやってきた働き者の労働者やお手伝いさんたちに、自分たちの出来ないことを補ってもらっているのに感謝をする様子はなく、やってもらうのが当たり前であるといった様子。

 

 

日本の保育園をはじめ学校生活の中では、皆で協力しながら掃除をしたり片づけをすることが自然と身についていくことが、ここでは家の外では期待できないどころか、「協力」という言葉はあるのかなと思うことも。

 

 

もう、そういう時代ではないといわれるかもしれませんが、子供たちに身につけて欲しいのは、物事に興味を持ち理解しようとする意思をもってもらうこと、そして、どんな状況であっても、どんな国で生活しても自ら動きだす軽いフットワークや柔軟性を持ち続けること。

 

 

そして、これは、失敗を積み重ねながら感じてきたことですが、こんな大人になって欲しいということは、子供たちには言葉でいうだけでは、絶対に通じないということでした。

 

 

日本にいるような気分で、学校生活、社会生活の一環として、子供たちは自然と世の中へ出て行くためのルールやマナー、そしてコツを学んでいくもんだと思ってはいけない。

 

 

「ごみぽいっ」の出来事で、ここで、いろいろと疑問に思っていたことが、実は、簡単な家でのお手伝いをやるかやらないかで違いが出てくるのではないかなという模索から、それからは、お互いに助け合うという意識がもてるようになる事を目指してきました。

 

お手伝いさんには、お母さんが助けてもらっているの

 

 

これは、ここでお手伝いさんとして仕事をしている彼女には、かなり戸惑いがあったようで、子供(長女)も納得いかないようでした。

 

 

お手伝いさん自身が主張するように、それはお手伝いさんの仕事、と。

 

 

日本で家事代行サービスや支援サポートを利用していた際は、短時間で必要なことだけをやってもらっていたこともあってか、あえて手伝わなければと思ったことはなかったものの、ここで丸一日家にいて家事に子守をやってくれるお手伝いさんは、すでにお母さんがわり。

 

 

そうなると、子供を含めて、私も出来ることは「手伝う」のがとても自然なように思っていることを伝えるために、私が出来ないことを手伝ってもらっているのだから、お母さんだったら手伝ってほしいことは、お手伝いさんも手伝ってもらえると助かるのではないかと事あるごとに口にだすようになりました。

 

 

しかし、初めは簡単ではありませんでした。

 

 

日本では、それこそ「基本のキ」、自分が遊んだおもちゃは自分で片付けましょうということが出来なくなっていたんです。

 

 

3歳近くまで日本の保育園に通っていた上の子は、そんな習慣がついてはいたものの、ここへきて1年がたち2年目となり、一般的な現地の子達のように、お手伝いさんが何でもやってくれる状態に近くなってきていたところ。

 

 

そこで、帰宅の時間をきりあげて、散らばったおもちゃがどうなるかを観察していると、やはり、お手伝いさんが片付けて、子供たちはしらんぷり。お手伝いさんを手伝うようにいって、その場はやっても、次の日はまた同じことの繰り返し。

 

 

それに対して注意しながら、私がいらいらするものだから、子供たちもいらいら、お手伝いさんはおろおろと、非常に重苦しい夕方を過ごしていたのですが、あるとき、日本の保育園で、皆で片づけをやっていた光景をぼんやりと思い出しました。

 

 

皆でもくもくと片づけをするのではなく、一緒に片づけをする先生が、皆に話しかけながら片づけをしていたような。そういえば、家で片づけをする際も、これは、(自分のなまえ)のおもちゃで、あれは(下のこのなまえ)の。じゅんばんじゅんばん、なんて話をしながら片付けていました。

 

まだまだ小さい子供たちが、「基本のキ」を忘れていたのではなく、母の私が「基本のキ」を示していないことに気づいたのです。

 

 

その日から、私も一緒に散らばったおもちゃを片付けるだけではなく、このおもちゃで、今日、どうやって遊んだのか、いったい、どうして、あっちとこっちとおもちゃが散らばっているのかなんて、思いつくことを言葉にだしてみることで、そこに反応した上の子が加わり、下の子は上の子を真似するような形で、なんだか簡単に気分よく片づけを終了することが出来るようになってきました。

 

 

単なるおもちゃの片付けに一体どれだけかかったことか。

 

 

これ以降は、先ずは、私が興味をもっている姿勢をみせる、そこに、ゲーム感覚で参加してもらう、そこから、脱いだ服は洗濯かごに、にんじんやじゃがいもの皮むきをはじめ、卵の殻を割りたいといったらやらせて、失敗したら一緒に笑ったり。

 

 

正直なところ、よくいわれるように、子供に手伝ってもらうことで、余計に時間がかかることを実感しながらも、そんな様子で、お手伝いさんも一緒に過ごすことで、彼女自身も、遊び感覚でお手伝いをしてもらうことの「楽しさ」と「意義」を理解してくれたのではないかと思っています。

 

 

そして、現地の多くの小さい子供たちが、何故だかいわない「Thank you(ありがとう)」と「Please(おねがい~)」という言葉は、自分が望むことを無条件にやってもらえる状況(お手伝いさんが何でもやってくれる)では、決して自然にでてこない言葉なのかもしれないことにも気づきました。

 

 

それまでは、私が「ありがとう」という姿をみせることで、子供たちも同じようなことが出来るようになるものだと思っていたのですが、実際には、本人たちが片付けや掃除をするようになってから、それを手伝ってくれるお手伝いさんに、自然と「ありがとう」という言葉がでるようになってきたような気がします。

 

 

 

それからは、お手伝いさんがいなくても、私が家事を出来ないときは、頼まれるでもなく子供たちがやるのをみて、主人も手伝ったり。

 

 

 

また、子どもがティーンエージャーになった瞬間、家事をはじめ、なかなかこちらの思うようにやってくれなかったりでイライラすることもあったものの、一般的にみてわりと気が利き、これだったら他所の国でも十分にやっていけるというぐらいには育ってきていると思います。

 

子供たちにお手伝いをさせてよかった

 

 

生活習慣やマナー面で大きく違う海外での生活は、「郷に入れば郷に従え」とはいいますが、子育てに関しては、ここでいうと”ほがらか”であったり、気楽であったりというよい面はどんどんと取り入れても、疑問に思う点は、教育面も含めて「本能的」に感じることを取り入れてきてよかったと思うこのごろです。

 

 

 

ここ現地の人たちにとっては、私のやっていたことは「馬鹿」のように映っていたようで、メイドがいるのに、どうして子供たちに手伝わせたり、私が手伝ったりするんだと言われた事もあります。

 

 

 

もちろん、そこでは何もいいませんが、心の中では、だって、子供たちはここでずっと暮らすわけではなく、他の国でも適応できないといけないからという単純な躾の一環だからと思ってはいたものの、「水の低きに就く如し」で、易きに流れかけていた自分の浅はかな姿もしっかりと思い起こしてきました。

 

 

 

不思議なことに、長いつきあいのある私の友人たちや子供たちの友人たちは、日本を含め、海外からの長期滞在者、当地とのミックスであったりという家族が殆どなのですが、やはり、家にお手伝いさんがいた時期があっても、食事後の片付け、アイロンがけをはじめ、料理を作るどころか、お父さんの仕事の手伝いで、土日は牛に与えるための草刈をやって賃金をもらっている子までいたりと、皆、家事手伝いを普通に行ってきた子達ばかりです。

 

 

 

そして、そうやってお家の手伝いをちゃんとやってきた子供たちというのは、不思議と勉強がわりと出来るだけではなく、実際に身軽に体を動かしていたことが基となるのかは不明ですが、いろんな事物をよく観察している子達が多く、集団の中でも発言力や統率力がでてくるようにみえます。

 

 

 

家事手伝いをやるには、はじめはいわれるままにやるだけでも、どうやって効率よくやるか、時間配分をどうするか自然と考えるようになり、何よりもテレビやゲーム機の前に座っている時間などほとんどなくなります。

 

 

 

そうやってテレビやゲームにくっつく習慣がなくなることで、家族の団欒や読書に費やす時間も自然と増えていくように思います。

 

 

 

ここへ引っ越してきて以来、お手伝いさんの登場もあって、父親の家事参加がほとんどなくなったと思いきや、そういえば、子供たちの起床時間がはやくなるにつれ、朝の支度、飲み物の準備とすべてやってもらっていたことを今思い出しました。家事分担を誰もが主体的に考えている現れかもしれません。

 

 

 

もし、日本であのまま子育てを行っていたら、保育園、学校に社会の影響から、ここまで「基本のキ」にこだわって子育てをする必要はなかったのではないかと思います。

 

 

 

東南アジアのとある国で、明るくほがらかではあるものの、あまりにも自分本位な人たちが多いように思えた事に加えて、子供が社会にでていくために必要なことへの関心が薄いのではないかという疑問がどんどんと多きくなる中での子育てでした。

 

 

 

家の中で今必要なのことに気付いて行う自立心を少しずつ伸ばしていく事が出来きたのは、あの、「ごみぽいっ」事件のおかげです。