「ママは来月から仕事をすることになったから」
ある日の夕食の席で、父はそう告げて家族の顔を見渡しました。
その時は、まさか母が年収1000万円プレーヤーになろうとは夢にも思っていませんでした。
そして、母の収入が増えていくと同時に、予期せぬ変化が起こりました。
今となっては笑い話ですが、当時中学生の私には、かなり切実だった家庭の事情を思い出すと、そこには働く主婦に共通する問題があったと思います。
そこで、今だから語れる「高収入の母と我が家の家事分担」についてまとめてみました。
Contents
専業主婦だった母が外で働くようになった後に起こった変化
我が家は東京の郊外に住む4人家族。
父、母と長女である私、そして6歳下の妹が一階建ての小さな一軒家で暮らしていました。
父は地元の個人商店で、雇われオーナーとして月給をもらうサラリーマン。
母は近所の方々から注文を受けて服を縫うことで家計を支えていました。
しかし、仕事量は家事に支障をきたさない程度の内職でした。
そんなある日、母は長年お世話になっていた保険の外交員の女性から
「保険の仕事をしませんか?」とスカウトされたのです。
母は外で働きたかったようでしたが、父に遠慮してはっきりと言えずにいました。
でも、私はその時中学生で高校入学が決まり、妹も春から小学校の高学年になることもあって、思い切って父に交渉し、OKをもらうことができました。
そして、母は保険の外交員としての仕事を始めることになったのです。
そこからの母の快進撃は目を見張るものがありました。生来の外交的な人柄に加え、注文服のお客様、PTAや婦人会、父の商店のお客様などあらゆる人脈を使って契約を取り、ある月には月間契約件数が全国で2位という成績にまでのぼりつめました。
最初は、きちんと仕事と家事の両立をさせていた母も、だんだんと帰りが遅くなり、契約のために夕食の支度に帰れない日が続くようになりました。
また、そこまでの成績になると会社からの期待も重くのしかかってきます。
契約数が減ると、上司から激しく叱咤されることもしばしばあったようです。
そして、3年目には新人の教育をする所長にまで昇進してしまいました。
すでに暗黙の了解で、家事の分担は朝食の支度のみ母、リビングの掃除と洗濯ものの取り込みは父、洗濯と夕食の支度、片付けは私、リビング以外の掃除は妹。
休日には庭回り、その他の家事を全員でやる、という役割になっていましたが、母は休日も一日家にいることはありませんでした。
さらに所長3年目には、深夜帰宅が当たり前になり、時には夜中の3時過ぎになることも。
それでは朝食を作るという唯一の家事さえ大変な状態になってきました。
さすがにこの時は父も私も堪忍袋の緒が切れて、三者会議をしました。
最初は主婦が夜中に帰ることを心配したり、そんな時間に会議をする会社が非常識だということに文句を言っていたのですが、だんだんその矛先が家事分担に話になると、本音が出てきました。
「そもそも主婦が家事もできないくらい働くなんでどうなんだ!」と父が言い
「主婦なんだから、夜中の会議なんて断るのが常識じゃない?」と私が言うと、
「家族のために一所懸命、働いてるのに…」と母が泣き出しました。
それを見て、そんなに頑張って働いている母に文句を言っている私自身が切ないやら、情けないやら、複雑な感情があふれて涙が出てきました。
父も黙って下を向き、こぶしを膝にのせて唇をかみしめていました。
こうして、第一回目の家族会議は終了しました。
しかし、このような辛い会議はもう二度と行われませんでした。
この時、外で働く母に向かって「主婦だから…」という言葉がいかに不毛で無意味な枕詞であるかを、父も私も思い知ったのです。
家族の言い分――心配性の夫(父)の場合
ではここからは視点を変えて、それぞれの事情から家族の言い分をまとめてみます。
まず、父は、もともと苦労して育っているため、家事のほとんどを母より上手にこなせる人なのです。
しかし、母が内職をしていた時は、まったく家事をやりませんでした。
もちろん、理由は「外で稼ぐのは自分、主婦は家事をするのが当たり前」という昭和世代の常識からです。
しかし、母が忙しくなるにつれ、できることはしなければならなくなりました。
幸い、父の仕事先が近所だったことと、車で修理や配達に出ていたため、途中で家に帰って、雨が降れば洗濯物を取り込んだり、時間があればお米を研いだりということをしていました。
結果的に、父の家事レベルが高かったことが、母を本気で仕事に向かわせたきっかけにもなっただろうと思います。
ただ一つ大きな弊害となったことは、心の支えの問題です。
いつも血圧が高く、心配性である父は、母がいないと病院にも一人で行けないくらい神経の細い人なのです。
ましてや母が夜中に帰ったり、付き合いの飲み会や研修旅行などで留守が多くなると、心配なだけでなく、仕事の愚痴や体調の不安を聞いてくれる人がいなくなるのです。
あとで聞いた話では、父にとっては家事の負担よりも、「もう少し対話の時間が欲しかった」というのが本音だったようです。
家族の言い分――甘ったれ長女(私)の場合
母が保険の外交の仕事を始めたのは私が中学3年生の卒業間近の頃。
私はかなり甘やかされて育っていたため、家事に関しても、ほとんどちゃんとしたやりかたを習ったことはありません。
しかし、父が唯一できない家事が「食事の支度」だったため、必然的に私の役割が「夕食担当」と決まりました。もともと料理には興味があったためか、食事の支度をすること自体は嫌ではなかったのですが、高校時代は青春真っただ中、部活や友達とのおしゃべり、ショッピングなどに時間を使いたい時期です。
ところが私は夕食の支度があるため、どうしても直行で家に帰らなければなりません。
ある時、「今日は少しくらいならいいかな」と、友人と1時間くらい喫茶店で話をして家に帰ると、父がすごい剣幕で怒りました。
「なんでこんなに遅いんだ!」
たった1時間、初めて友人と学校帰りにおしゃべりしただけなのに、そんな言い方は何?!
父はその日、体調が悪く、仕事でもトラブルがあり、機嫌が悪かったのです。そんな時、母が外で働く前までは、母に話を聞いてもらえていたのだと思いますが、娘である私には弱い所を見せることはできないのでしょう。父の不満は屈折した形で私に跳ね返ってきたのです。
ちょうど反発したい年頃だったので、よく喧嘩もしましたが、それでも高校三年間は欠かさず夕食を作り続け、父の話相手になりました。
私はそこで思いました。父の面倒を見るのも家事の一部だったんだ、と。
その時の私の本音は、「青春時代のさまざまな楽しみを犠牲にして家事のために毎日直帰しているんだから、それをわかって!」でした。
家族の言い分――しっかり者の次女(妹)の場合
母が外で働き始めた時、妹は小学校3年生でした。いわゆる「鍵っ子」で、最初はかなり不安で、寂しかったと思います。
やはり両親もそのことは心配だったらしく、近所の幼馴みのお友達が通う、塾や習い事を一緒に習わせることにしました。
妹としては塾も習い事もそんなに興味があったものではないのですが、文句も言わず、半分義務のように通っていました。
月曜から土曜日まで、塾、水泳、絵画教室、英会話と、私から見たらうらやましい限りでしたが、本人は一人の時間を紛らわすための唯一の方法でした。
妹が高校生になる頃は、私も就職して帰りが遅くなる日が多くなったので、妹にも食事の支度をしてもらうようになりました。
でも、私が当番のときに、急に食事の支度を代わってもらうことがあり、よく妹に怒られました。また、父も母も余裕がないときは、すぐに妹に家事を頼ったので、気分屋の父と姉、そしてほとんど家にいない母の間で、妹はとても自立した性格になりました。
大人になって妹に聞いてびっくりしたのですが、妹は鍵っ子になった小学生の時から、「家族に迷惑をかけない」というのを信条にしていたそうです。
妹の言い分としては、「私の存在を認めて! 決めたことはきちんと守って!」というところだったようです。
妹とはその後、話し合って、家事を交代してもらった時だけは、お小遣いとかプレゼントをするようになりました。
突然の家事交代は、家事と言えど一つの「仕事」です。その代償を払うという考え方が生まれたのも、家事分担について全員が取り組むようになったおかげです。
家族のその後
家を守っていた母が一家の大黒柱として働くようになり、我が家では家族一人ひとりが生活を見直すことになりました。
そこで生まれた副産物は、自分自身を見つめて、適性を生かすことを考えるようになったことです。
試行錯誤の結果、最終的に我が家で決めた家事分担は、以下のようなものでした。
母は高収入なので、仕事に専念してもらい、家事はほとんどできなくても良いと認める。
父は昼間自由に家に帰れることを生かしてできる家事をする。
私は食事の支度と、父や妹、そして母の話を聞くことで家族をまとめる。
妹は掃除と片付けをメインにピンチヒッターの役割を担う。
その甲斐あってか、母は定年まで勤め上げたことで、家を新築し、今は父と共に悠々自適の生活を送っています。
私は、家事はそこそこでも仕事優先の生活を許してもらえるパートナーと結婚しました。
妹は逆に、家事・育児をすべてこなしながら、パートで家計を支えるしっかり者の主婦になりました。
こうして振り返ってみると、家族それぞれ、悲喜こもごもありましたが、個人の適性を尊重し、我が家なりの最適な家事バランスが整ったのではないかと思います。
何より大事なのは、できるだけ対話を重ねること。対話こそが家族をつなげる絆ですね。